有明海で続々「奇形魚」
名産のボラの背骨がひん曲がり、背ビレのないスズキも――。有明海の漁師たちから「奇形魚が激増し、逆に漁獲高は激減している」という悲鳴を聞いた。ムツゴロウの海、有明海に異変が起きている。いったい、なぜ。彼らが告発するのは、やはり有明名産の海苔の生産に使う「酸処理剤」だ。早速、現場に飛んだ。
本誌 瀬川大介
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よく見ると背ビレがない。(提供写真)
3月上旬、熊本市の熊本新港の堤防から見た有明海は、曇り空を映して鈍く光っていた。穏やかな海面の下で何が起きているのだろうか。
まず訪ねたのは、浜辺から約300メートルの漁師Aさん(60)の自宅だ。
「奇形の魚が今日も獲れた」
と言って見せられたのは、発泡スチロールケースに入った40センチほどのボラと約30センチのクロダイ。ボラは、上から見ると「S字形」に背骨がひん曲がっていた。クロダイは、尾ビレ近くの部分だけが極端にやせ細っている。この日の漁で獲れた50尾のうち2尾が「奇形」というのだ。Aさんが続ける。
「25匹に1匹ということ。当然、売り物にはならない。有明海はただでさえ漁獲量が激減しているのに、ここ数年でこういう魚が獲れる確率が上がったよ」
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体が「S字形」にひん曲がっている。(提供写真)
九州農政局のデータによると、有明海の漁獲量は福岡、佐賀、長崎、熊本各県の合計で1982年には8万6599トンだった。それが、2005年には2万5673トンに激減した。魚類が約3分の1、アサリなど貝類に至っては約4分の1まで減った。漁師の実感は数字以上に切実で、
「船の維持費などで漁の稼ぎはほとんど飛んでしまって、生活費のために貯金を切り崩している。昔は1回の漁で何百万も儲かる日があったのに、今は2万円ぐらい。まったく獲れない日もある」(50代のBさん)
「まさに崖っぷち。その日暮らしという感じだ」(同Cさん)
などと嘆く。ただでさえ、こんな状況なのに、「奇形魚」の増加傾向を実感している漁師は、自らの生活だけでなく、有明海の将来に深刻な危惧を抱いている。
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有明海で今、何が起こっているというのか。
漁師たちの話を総合すると、奇形魚が頻繁に獲れるようになったのはここ数年。冒頭の話のように、背骨が曲がったもののほか、体にコブができたもの、背ビレが欠損しているものなどが確認されている。こうした魚は、5年ほど前までは、せいぜい年に2~3尾、または数十回の漁で1尾程度だったのに、「5年前を1とするなら今は10だね」(同Dさん)というほど増えた。全体の漁獲量は減少したのに、「奇形魚」が獲れる頻度は上がっているのだ。
この現象は、地元でもまだ一般には知られておらず、原因も定かではない。だが、取材に応じた漁師らが、イメージダウンによる不買などの不利を覚悟で奇形魚の増加を明かしたのは、
「海苔の養殖に使う『酸処理剤』に原因があるのではないか」(Aさん)
と訴えるためだった。そして、この酸処理剤と有明海の変化、漁獲量の減少との関連性を指摘する専門家もいるのだ。
海苔が魚を食べる?
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記者が実際に見た魚も背骨が曲がっていた。
「酸処理剤」とは食料に含まれるクエン酸、リンゴ酸などを原料とする液体だ。この液体に海苔を養殖する網ごとつけ込んで使用する。こうすれば海苔の病原体などの駆除ができ、病気や色落ちを効果的に防止できる。多くの生産者が利用している、ごく一般的なものだ。
海苔の養殖方法は大別して、海に網を浮かべて生産する「浮き流し」方式と、浅瀬に支柱を立てて網を張る「支柱棚」方式とがある。熊本では、沖合でも生産できる「浮き流し」が多いのだが、干潮時に網が空気に触れる「支柱棚」と異なり、海につかりっぱなしのため、病原体が付着するリスクが高い。だから、酸処理剤が活躍するのだ。
だが、酸処理剤こそが有明海荒廃の原因と痛烈に批判する人がいる。東北大名誉教授の江刺洋司氏(環境生物学)だ。
「これはコンビニで売られて愛飲されている各種サプリメントを海にまいているようなものです。栄養を人為的に投与することで、ただでさえ温暖化で海水温が上昇している時に、富栄養化を進めてプランクトンの増殖を促し、有明海を赤潮に始まる死の海へと追いやっている」
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尾ビレ付近にコブのようなものができている。(提供写真)
もともと有明海は、三方を陸地に囲まれているところに大小河川が流入して栄養が過剰になりがちで、海水が入れ替わりにくい環境にある。水産庁も有明海の魚介類が減少しているのは「酸素の少ない海域が多く、魚のすみにくい環境になりつつあるため」としている。
さて、酸処理剤と有明海への影響の因果関係の前に、まずは一般論として、魚がすめなくなる海域ができるメカニズムを説明しておこう。
植物プランクトンの成長を促すのはリンや窒素などの肥料成分で、その量が多すぎれば、特に夏場に植物プランクトンが大発生し、赤潮などの被害が生じる。植物プランクトンは食物連鎖の原点となる大事なものだが、一方で、あまりに多いと、いずれは大量の死骸が海底に沈殿していく。その死骸が分解される際に多くの酸素が消費されることになり、冬場でも酸素の少ない海域ができる。酸素呼吸で生きている魚介類の生命に大きな影響をもたらすのだ。
そこで、酸処理剤との関係だ。江刺氏は、
「近年は温暖化で、海苔養殖の時期と重なる冬場でも赤潮が発生しやすいのです。リンゴ酸など酸処理剤の主成分は植物にもあるものですが、人為的に投与することで、植物プランクトンの大量発生を促し、海面近くを除く海域の酸素の量を低め、海洋環境に悪影響を与えるのです」
と指摘する。
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地元の市場は閑散としている。
そしていよいよ奇形魚との関連についてだが、江刺氏はこう主張する。
「酸処理剤が大量の植物プランクトンを発生させ、有明海の酸素を少なくしている。酸素濃度が低いと、成長に必要な核酸やたんぱく質などが通常通りできずに、『奇形』の魚が生まれる可能性があるというわけです。そればかりか、低酸素が進み酸欠になると有毒な硫化水素が発生し、海の低層の魚を全滅させる死の海となってしまう」
前出の漁師Bさんが訴える。
「本当は奇形魚のことは言いたくなかった。でも、有明海を死の海にしたくはない。これは我々の悲痛な叫びなのです」
国、県は「今は影響ない」
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漁師らがやり玉にあげる酸処理剤
このような指摘はあるものの、国は1984年の水産庁通達で、海苔に残留しないものなどを条件に酸処理剤を認めている。
「主要成分が食品に使われているもので、養殖で使用している濃度であれば、海苔の安全性は確保されている。現状では(赤潮などの原因となる)富栄養化への影響も非常に少ない」
という判断だ。つまり、江刺氏らの立場とは正反対。富栄養化の原因となるリンや窒素などの増加についての考え方が、まるで違うのだ。
水産庁の調査では、リンや窒素などは河川など陸上から流入する分が90%以上を占め、酸処理剤によるものは1~2%にすぎない。
「酸処理剤の有明海の環境への影響は微々たるものだ。それよりも、下水道整備など陸上からの影響を軽減することのほうが効果は大きい。さらに、海苔が吸収する窒素やリンは現状で使用される酸処理剤のものよりも多い」(水産庁)
水産大学校名誉教授の鬼頭鈞氏も、こう言う。
「1~2%であれば、論議の対象とならない。そして、酸処理剤は約1週間でほぼゼロの水準に分解され、これが夏場の赤潮に影響するとも考えにくい。漁獲量が減ったのは(漁業)技術の革新によって、大量に漁獲できるようになったのが大きい」
と同様の立場だ。
これに対し江刺氏は、
「有明海は以前から、わずかな環境の変化で赤潮が発生する繊細な海域だ。加えて温暖化で植物プランクトンが発生しやすい状況にあり、1%としても影響は小さいとは言えない」
と力説する。
ただ、酸処理剤擁護派の水産庁側も、「有明海の体力を考えて負荷を減らす必要がある」として、可能な限り酸処理剤の使用量を抑える必要性を訴えている。熊本県も、「本県は、生産量あたりの酸処理剤の使用量が比較的多いとされる」ので「今のままの使用状況では、強酸及びリンなどによる環境への負荷の増大が懸念される」としているのだ。
そして熊本県は06年度に、海苔10億枚に対し、酸処理剤の使用量を県全体で年間3万7000箱とする目標を設定した。
使用量を減らせない事情
ところが、この熊本県の目標に海苔生産者たちは、
「県は現場の状況がわかっていない。毎年、海の状況は変わるし、海苔が病気で全滅したらどうするのだ」(地元漁協関係者)
と反発。同年度の実際の使用量は海苔10億7900万枚に対し、7万2900箱(購入実績)に達した。10億枚当たりにすると6万7500箱だから、目標をはるかに超えている。
ちなみに、熊本県と同じ「浮き流し」方式が主流の兵庫県の場合は、同年度の海苔生産量約16億4400万枚で、酸処理剤は約6万箱。10億枚当たりだと、ちょうど熊本県の目標とほぼ同じ3万6000箱となる。
こう聞けば、やはり熊本県は使いすぎではないかとも思うが、有明海と瀬戸内海とを単純に比較するわけにもいかない。有明海はかつて何度も海苔の不作に悩まされてきた歴史があり、酸処理剤を急に減らすと心配だという海苔生産者が多いのだ。
Aさん宅で奇形魚を見たその日、地元の漁協を訪ね、酸処理剤と漁獲量の減少について取材した。居合わせた初老の海苔生産関係者は声を荒らげて、
「(酸処理剤が)農薬と同じなんてとんでもない話です。魚が少なくなったとすれば、それは酸処理剤ではなくて乱獲したからです。最近は貝もまた獲れるようになっているんですよ。奇形魚? たまにはいますよ」
「本当なら使いたくないんです。1箱あたりの価格(約5000円)もばかにならないし。それでも使わざるを得ない」
と反論した。一方の漁師らは、
「有明海は海苔生産者だけのものではない。自分たちも有明で生きているんだ」
と憤る。
漁師と海苔の生産者、そして酸処理剤糾弾派と擁護派――。両者の言い分はどこまでいっても平行線だ。しかし、その間にも奇形魚は増え続けている。お互い、「有明海を死の海にしてはならない」という主張の底流は共通しているのに、これでは、手遅れになってしまう――。
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