聖火リレーになぜこだわるのか?
統一日報 2008/05/01
5大陸19都市と、中国の31省と自治区、香港、マカオ両特別行政区を経由する北京五輪の聖火リレー。「世界の屋根」チョモランマも通る。およそ13万7000キロ、2万1880人のランナー。オリンピック史上、空前絶後の規模だ。
だが、国際ルートでは、トーチが消されたり(パリ)、コースが変更、短縮されたり(サンフランシスコ、デリー)する事態が頻発した。4月26日には日本でも、善光寺がスタート地点になることを断ったため、コースが縮小変更された。善光寺は治安問題を理由にしたが、「もちろん、チベットの問題もある」と本音をもらした。
中国独りが聖火リレーに躍起となっていると言っていい。
人権問題が深刻化する場合、ふつうなら、当該国で抗議の声が上がる。中国国内でそのような動きは皆無だ。それどころか、海外在住の世界中の中国人が、政府と声を一にし、時には青いスポーツウェアの一団となって、該地警察も顔負けの「聖火警護隊」の役割を担っている。
中国はなぜこうも聖火リレーにこだわるのか。
シドニーの姿勢
オリンピックの歴史は、聖火の採火を重要なセレモニーとしてきたが、リレーそのものに対しては、取りたてて意義をおいてはこなかった。
たとえば、モントリオール大会(1976年)では、聖火は電子パルスに変換され、アテネから衛星を経由してカナダまで送られ、レーザー光線によって再点火が行われた。
中国政府のこだわりは、異様としか思えない。聖火リレーを発案し、聖火リレーを欧州侵攻ルートに利用したナチス政権下のベルリン大会を彷彿とさせる。ヒトラーは、オリンピックを「ハーケンクロイツ」を発揚させる絶好の機会と見なした。そのことを否定できる人は誰もいまい。72年前のそれとよく似たことが、今進行しているのだと、世界の良識は叫んでいる。
ドイツのシュタインマイヤー外相は3月22日、『ビルト・アム・ソンタグ』紙のインタビューで、「1936年のベルリン大会では、ハイル・ヒトラーが叫ばれている陰で、ユダヤ人たちが虐殺されていた」と述べながら、「今回は、事情が異なる。テレビで華やかな五輪を放映して、裏では騒乱が続いたままという事態は通用しない」と語った。
8年前のシドニー五輪を思い出すべきだ。先住民アボリジニの人権を重んじるという、オーストラリアの反省をこめた願いが聖火に託されたことを。
聖火リレーの国内最終ランナーもアボリジニの選手が選ばれた。うわべに過ぎないという皮肉も聞かれたが、自国の人権問題を前面に打ち出す姿勢に、世界のほとんどが好感を寄せたものだ。
シドニーのそうした姿勢が開催地として決定されたのだ。
人権問題解決の約束
チベット騒乱が続く中、IOCのロゲ会長は、「北京が開催地に決定した条件には、中国国内の人権問題が解決されるということがあった」と述べた。その約束は果たされたのか。世界は開催資格そのものを、チベット問題で疑うようになった。
北京開催を決定した際のIOC会長は、アントニオ・サマランチ氏だった。
サマランチ氏は4月11日、記者たちの質問を受け、「人権問題は国連に訴えるべきだ。スポーツの祭典であるオリンピックに持ち込むのは間違っている」と述べた。
だが、五輪憲章は、人の尊厳を損なうことなかれと、明確に謳っている。
参加国が個々に平和と人権への貢献をアピールしようとする聖火リレー。今回はどうか。参加しないことが平和と人権へのアピールとなっているように思えてならない。開催国によって五輪憲章の意義が逆さまになるということをIOCは知るべきだ。
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